岡倉天心(1863〜1913年)は、東京美術学校の校長を務め、日本美術院を創設(明治31年)、日本美術の海外への紹介にも尽くし、著書に「東洋の理想」、「日本のめざめ」、「茶の本」などがある。
公園の正面に突き当りには、「天心記念六角堂」があり、堂の中には、平櫛田中作の「岡倉天心先生坐像」が安置されている。
入口の左手植込みには「岡倉天心先生旧宅趾日本美術院発祥之地」という石碑があり、さらに天心が作詞した日本美術院院歌を横山大観が絵をまじえて書いたものを碑にして建ててある。
「谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい
奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」
岡倉天心記念公園を出ると、萩寺ともいわれる宗林寺。左に進むと昔は蛍が飛び交っていたという蛍坂。この坂を上がると、赤門で知られる加納院の先、諏訪台通り(朝倉彫塑館の通り)の手前に、国の登録有形文化財に指定され、江戸時代後期に建てられた観音寺(静かで落ち着いた名刹、赤穂浪士ゆかりの寺)の築地塀が続く。
築地塀[観音寺]から諏訪台通りに出て、左へ進むと、明治から昭和の日本彫塑界をリードした彫塑家・朝倉文夫(1883〜1964年)のアトリエ兼住居がある。(平成25年10月29日リニューアルオープン)
同氏の作品はもとより、四季を彩る樹木と景石が狭隘な空間に配され、国の名勝に指定された水庭。木造日本家屋と自然光が差込む鉄筋コンクリート造のアトリエ。壁には天然石の瑪瑙、天井に神代杉を使った「朝陽の間」、屋上緑化の先駆けと言われるビワやオリーブが植えられた庭園など、朝倉流哲学を存分に愉しめる。
同館は、昭和61年台東区に寄贈され、出身地の大分県朝地町(現在は豊後大野市)と姉妹都市連携を結び、台東区と市民交流が続いている。