服部ゆくおのあゆみ|台東区長 服部征夫(服部ゆくお)オフィシャルwebサイト

自民党 東京都議会議員 【台東区選出】
地域のために働きます! 服部ゆくお

これまでのあゆみ 〜わが青春の軌跡〜

都政研究 平成20年10月号より

 私の住んでいる台東区谷中の街並みは、上野、寛永寺とともに「日本の歴史的風土100選」に選ばれ、江戸のある街、やすらぎの街として散策の方々で賑わい、商店街も活気にあふれています。近くには岡倉天心記念公園、朝倉文夫彫塑館があり、この七月は谷中五重塔が焼失して五十年、また、この塔をモデルにした名作「五重塔」の作者である幸田露伴没後六十年の年にもあたり、五重塔再建の気運が盛り上がっています。

◇生活環境の変化にもめげず

 福岡県出身の父寅雄は、典型的な明治の気骨を持った厳格な人でした。
 戦前、農林大臣を務めた有馬頼寧伯に仕え、南洋庁長官秘書を経て支那事変に従軍、東京市の時代に杉並区より市会議員に非推薦で当選、私の生まれた昭和十八年に行われた最初の東京都議選に立候補中、再度の応召をうけて南方ハルマヘラ島に出征し、戦後、栄養失調で命からがら帰国します。
 当時、私たち家族は、母方の実家である埼玉県羽生市に疎開していましたが、リュックサックを背負って、よれよれの軍服姿で、畑の中を歩いて生きて帰ってきた父親の姿を、今でも覚えています。
 復員した父は家族とともに荻久保に戻り、在京の福岡県人会設立の奔走し、事務局長として郷里と東京を結ぶ世話役をしていました。
 その頃、私は五人兄弟の末っ子で、杉並区立桃井第二小学校に入学、放課後はベーゴマ、めんこ、凧揚げ、缶蹴りと近くの白山神社や光明院が遊び場で、夜は近所の竹下道場で柔道の稽古に励みました。
 父が故郷八女市長に立候補することになり、小学校卒業とともに、一足先に私は、家族と離れ八女市岡山の父の本家に預けられることになります。

 東京駅から博多駅まで、急行列車に揺られて二十三時間、さらに久留米を経由して一時間の長旅で両親から遠く離れての生活が始まりました。
 朝は鶏の鳴き声が目覚まし代わり、夏の夜は蚊帳の外で蛍が飛び交い、ある時は二階の座敷の天井に守り神として住みついている、二メートル近い青大将と遭遇、びっくりして思わず窓から飛び降りたことや、淋しさがこみあげ、遠く東方の星空を涙で見上げたこともありましたが、東京から貨車で八女に送ってもらった愛犬トワンは、力強い相棒でもありました。
 四月からは家から歩いて三十分ほどの、高台にある八女市立岡山中学校に入学しました。
 中学校に豚当番があるのに驚きましたが、♪兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川、通学の行き帰りには、小川で置き針や、ウナギ筌を仕掛け、山へ入って、かすみ網でホウジロを捕ったり、生まれて初めて田植えや稲刈りを手伝うなど、大自然のなかで、それまでの都会っこでは経験したことのない、貴重な体験をすることができました。

愛犬トワンとともに

 翌年、父は福岡県八女市長に当選し、ようやく両親と三人で市内に住むことになります。
 父は、青年男女が農村にしっかり腰を据えられるよう八女茶、八女提灯といった特産品の奨励や、果樹や菊の栽培など多角的な農業政策を推進しました。そして「人間は、世間の恩恵や、先輩友人、知己の力添えに負うところ甚だ多きを思わねばならない」と言い聞かされたものです。
 その後市長を務めた父が亡くなり、母とともに東京に引き上げ日本大学に入学します。

◇政治と出会う

 昭和三十八年、入学と同時に日本大学雄辨会法学部弁論部に所属し、弁論大会では「現代政党への提言」「政治を国民の手に」を訴え、良き先輩、同輩、後輩に恵まれ討論大会、地方遊説などで授業に出るより部室にいることが多く、部活動が最優先でした。その頃、東京では歌声喫茶や、ジャズ喫茶、ボウリングが人気を集める一方、キューバ危機や、ケネディ大統領暗殺という世界を震撼させる事件が起きました。

弁論部

後列中央が服部ゆくお

 ゼミでは、副総長をつとめ、雄辨会顧問の鵜沢義行先生に政治学を学びました。
 先生のお住まいは、台東区竜泉の樋口一葉記念館のお近くで、雄辨会の仲間や、ゼミの友人としばしば伺いました。
 酒脱なお人柄で「粋な羽織は裏地にこだわるものだ」と和服にくつろぎ、近くのお酉様で縁起物の熊手の買い方を教えられ、興に乗ると、学生服姿の私たちを伴い浅草に繰り出し、盃を傾け談論風発、肝胆相照らすこともできました。
 米寿を迎え矍鑠とされている先生を中心に今もゼミの仲間と集まっていますが、先生は数年前から「勝海舟翁」の銅像を生育の地に建立しようと奔走され、平成十五年、隅田川の畔、墨田区役所の広場に堂々と完成し、その雄姿は凛として太平洋を指さしています。
 政治への関心が強かった私は、当時都知事の特別秘書であった鈴木憲男先生(産経新聞論説委員)のお世話で、銀座にあった東龍太郎選挙事務所の広報室に入り、ガリ版刷りの原稿を報道各社に届けるなどの連絡役として、選挙の最前線で働くこともできました。さらに昭和四十二年、山田久就先生の最初の衆議院選挙(台東、文京、中央)で遊説隊長として選挙を闘います。
 山田先生は、もともと外務省の出身で、岸内閣の日米安全保障条約改定時の外務事務次官でした。
 その後フルシチョフの時代に、駐ソ連大使としてモスクワに赴任、帰国後、政界に入ることになります。
 選挙を通して、先生の人となりに接したことが人間形成にも大きな影響を受け、その後の私の人生の転機ともなりました。

◇秘書時代に学んだもの


 大学を卒業後はブリヂストンタイヤの代理店に勤務していましたが、二十六歳のとき山田先生から声をかけて頂き、秘書として働くことになります。
 その頃、東北新幹線の上野駅始発・早期開業が最大の重要課題でしたが、地元選出の政治家が結束して、区民とともに国を動かし実現できたことに政治の凄さを知りました。
 また、ハワイのヒロ市で開催された日米文化教育協力合同委員会に随行して、初めての国際会議を経験しました。山田先生からは、国際感覚や、エリザベス女王の前でも通用するマナーを身につけるよう薫陶を受けたものですが、不肖の弟子としては今も不明を恥じております。
 「外交は、相互信頼に基づく人間関係が基本である」と説かれ、色紙には「無信不立」と揮毫し、「準備の良いのは半ばの勝利」「傍観者であってはならない」が口癖で、今でも私の人生訓としています。

◇区議会時代に出会った人々

区議選

 昭和五十年、谷中を地盤に区議会議員として区政のために尽くされた高野幸助先生が引退されることになり、後継者にとのお話を頂き三十二歳で区議会に初当選することができました。
 徒手空拳の私を親身になって、時には厳しくお育て下さった、今は亡き箕浦一郎後援会長をはじめ、若い仲間や町会の皆さまの下町人情の有難さは、生涯忘れることができません。以来、私の政治信条として「地域のために働きます。」を貫いています。

 区長公選が実施された年で、台東区はアイデア区長として知られる内山栄一区長が誕生します。内山区政のなかで特筆すべきは、明治二十三年に建築された日本最古の音楽ホールである旧東京音楽学校「奏楽堂」の移築問題でした。
 当初、愛知県犬山の明治村に移築する計画に対し紆余曲折の末、区長の英断で上野公園内の旧東京都美術館の跡地に、生きた演奏会場として蘇ったことの意味は計り知れないほど大きいものがあります。
 副議長だった私は、内山区長の奏楽堂保存に賭ける並々ならぬ決意を感じ、困難なことだからこそ、やりがいと貫徹する勇気の大切さ、政治はロマンであるということを教えられました。
 芥川也寸志先生、黛敏郎先生の謦咳にも接し、国から明治村への移築の提案がされたときに黛先生は「上野に残らなければ保存の意味はない。ライオンとして死ぬ」と言われ、真剣勝負で国と闘う気概に圧倒されました。
 自治体による文化行政としては、伝統文化の継承、文化財保護のあり方に一石を投じた画期的なものでした。

◇この道一筋に


 その後、区議四期、区議会議長を務め、平成元年の都議選に無所属で挑戦、続いて五年の都議選にも敗れました。
 政治の道一筋に生きてきた私は、初心に帰り、再び区議会から出直しました。そして平成十一年の都議会補欠選挙に、深谷骼i先生、保坂三蔵先生のお力添えにより、自民党公認として立候補の機会を与えて頂き、終始変わらぬ皆様のご支援のおかげで念願を果たすことができました。
 その時、苦労をかけた九十三歳の母親の病室に当選の報告に行くと、ベッドに起き上がり、細い腕で何度も万歳をしてくれたことが今も脳裏に焼きついています。
 これからも一期一会のご縁を大切に、人皆わが師と心得、都議会議員の職責を果たしてまいります。